| 柏レイソル | |
|---|---|
| 原語表記 | 柏レイソル |
| 愛称 | レイソル |
| クラブカラー | 黄[1]、 黒 |
| 創設年 | 1940年 |
| 所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
| 所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン1 |
| ホームタウン | 千葉県柏市[1] |
| ホームスタジアム |
日立柏サッカー場[1] |
| 収容人数 | 15,900 |
| 運営法人 | 株式会社日立柏レイソル[1] |
| 代表者 | 御手洗尚樹[1] |
| 監督 |
|
| 公式サイト | 公式サイト |
| ■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ | |
柏レイソル(かしわレイソル、Kashiwa Reysol)は、日本の千葉県柏市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 略称 | 柏レイソル |
| 本社所在地 |
〒277-0083 千葉県柏市日立台1-2-50[1] (日立柏総合グラウンド内) |
| 設立 | 1992年4月1日 |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | サッカークラブ運営 |
| 代表者 | 河西 晋二郎 |
| 資本金 | 2,200万円 |
| 売上高 | 28億5,900万円 (2010年3月期) |
| 営業利益 | ▲7,100万円 (2010年3月期) |
| 純利益 | ▲5,500万円 (2010年3月期) |
| 決算期 | 3月期 |
| 主要株主 | 日立製作所 |
| 外部リンク | http://www.reysol.co.jp/ |
| 特記事項:当初社名「日立スポーツ株式会社」[1] | |
1940年に創部された日立製作所本社サッカー部(1970年に日立製作所サッカー部へ改称)が前身となり[1]、1995年にJリーグへ加盟した[1]。運営会社は株式会社日立柏レイソルであり[1]、千葉県柏市にホームタウンを置いている[1]。なお、柏市のほか、同じ東葛地域の我孫子・鎌ケ谷・流山・野田・松戸の5市、印旛地域の印西・白井の2市を活動エリアとして、サッカースクールや各市の市民招待デーなどを企画している。
チーム名はスペイン語の「レイ(Rey)」(王)と「ソル(Sol)」(太陽)を合わせた造語で、「太陽王」を意味する[1]。ホームスタジアムは日立柏サッカー場である[1](詳細は#スタジアムを参照)。
キャッチフレーズは「生活がスタジアム。ホームタウン柏、そして感動が聞える街へ」。
詳細は「日立製作所本社サッカー部」を参照
日立製作所サッカー部が前身で、1965年に創設された日本サッカーリーグ(JSL)に初年度から参加した8チームのうちの1つ。JSLではリーグ優勝1回、JSLカップ優勝1回の戦績を残し、天皇杯で2度の優勝を果たした。
1990年にプロリーグ(Jリーグ=1993年創設)参加を表明。1992年には運営会社となる株式会社日立スポーツを設立し[1]、初年度からのJリーグ参加は成らなかったが、「日立FC柏レイソル」(後に「日立FC」は日本協会正式登録名からは除去)とクラブ名称を改称して[1]、フジタサッカークラブ(現:湘南ベルマーレ)、ヤマハFCジュビロ磐田(現:ジュビロ磐田)と共にJリーグ準会員に認可された。
1993年、当時ブラジル代表のカレカを獲得し昇格を目指したが、ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)5位に終わり昇格はならなかった。
1994年、10月23日 JFL最終節でNTT関東に1-0で勝利したことで2位を確定し、悲願のJリーグ昇格を果たした。カレカはこの最終節のゴールを決めた他、チーム最多の19得点を決めて、昇格の立役者となった。
1995年、Jリーグ昇格1年目は1stステージで大苦戦し、最終戦はそれまで10連敗していたホームで勝利をあげるも最下位に終わる。2ndステージでは尻上がりに調子を上げ、特に1stステージ優勝の横浜Mに2戦2勝するなど5位となった。
1996年からはニカノール・デ・カルバーリョが指揮を執り、エジウソンや両サイドバックが激しく動く攻撃的なサッカーを展開、これが実を結び12連勝を達成。
1998年、監督に西野朗が就任。1999年に横浜Fから薩川了洋、平塚から洪明甫を獲得し、チーム強化を図る。その結果、ナビスコカップで優勝し、クラブ初タイトルを獲得。
2000年も好調を維持し、リーグ戦2ndステージでは終盤まで優勝を争った。 しかし最終節、勝った方が優勝という鹿島との直接対決でスコアレスドローとなり優勝を逃す。 結局、年間では最多の勝点を獲得したものの、1st/2ndステージ勝者が年間1位/2位となるため、総合3位でシーズンを終えた。勝ち点1位のチームが優勝を逃したことはチャンピオンシップの結果によって数例あるが、チャンピオンシップ出場を逃したのはこれが唯一のケースである。
2001年は、西野の長期政権による硬直した選手起用・世代交代の遅れなどの弊害も表面化し、西野を途中解任。 新監督のスティーブ・ペリマンの就任も功を奏さなかった。
2002年は連敗を重ね、J2降格危機に陥り、2ndステージから監督となったマルコ・アウレリオは玉田圭司など若手の育成に力を入れるが、2003年もチームは低迷。2004年、生え抜きの池谷友良がコーチから監督に昇格したが成績はかわらず、1stステージ終了後に池谷は辞任。監督に早野宏史が就任するも歯止めは効かず、J1最下位に終わる。J1・J2入れ替え戦で福岡に勝利し、J1に残留。
2005年は早野自ら、獲得に乗り出した当時韓国代表のFW崔成国やクレーベルを迎え、立て直しを図る。しかし、活躍を期待された崔は結果が残せず7月31日付でレンタル移籍を終了した。 なお、4月23日のホームで行われた名古屋戦では、試合後一部サポーターが相手サポーターを暴行し処分される騒ぎが起こった。 その後、低迷打破のため、元ブラジル代表FW フランサの獲得や、元東京Vのラモス瑠偉をコーチに起用するなど、てこ入れを図った。 ラモスのコーチとしてのデビュー戦となった9月17日、ホーム日立柏サッカー場でのG大阪戦で、先制されたもののその後2点を取り、逆転勝利で白星を飾った。 10月15日、アウエー駒場スタジアムでの浦和戦で、2人の退場者を出すなどし、0-7で大敗。その後、チームは勢いを失い、入れ替え戦のラインである16位付近を彷徨う。11月26日、ホームの東京V戦に5-1と大勝したものの、柏と残留争いをしていた清水が残留を決めたため、2年連続でJ1・J2入れ替え戦に回った。
J1・J2入れ替え戦では甲府と対戦。第1戦はアウェーで1-2での惜敗、第2戦ではホームで2-6の大敗を喫し、Jリーグ加盟11年目にして初のJリーグ ディビジョン2(J2)降格となった。 特に第2戦はバレーに6点を奪われた[2]。 ブラジル人選手に10億円もの大金を注いだといわれる補強をもってしても降格を防ぐことはできなかった。早野は天皇杯(対G大阪戦)を前に辞任。 後任は東京Vのコーチだった石崎信弘が就任。
J2降格を受けて明神智和がG大阪、波戸康広・土屋征夫が大宮、玉田圭司も名古屋、大野敏隆が東京V、矢野貴章・永田充が新潟など、主力選手が揃って他チームへ完全移籍していったものの、フランサの残留や北嶋秀朗の復帰、ディエゴの加入などにより攻撃陣が機能し開幕戦は引き分けるものの第2節から6連勝と首位を独走。終盤ペースを落とし横浜FC・神戸との自動昇格枠争いとなり、2位神戸と勝ち点差1の3位で迎えた最終節・湘南戦に勝利、神戸が仙台に敗れたため2位での自動昇格を決め、1年でのJリーグ ディビジョン1(J1)復帰を果たした。守備は48試合60失点という平凡な成績だったものの、攻撃では84得点と2006年シーズンJ2最多得点を記録。石崎にとっては自身初のJ1昇格となった[3]。
J1復帰に大いに貢献したリカルジーニョ、ディエゴが退団。GK水谷雄一、MFアルセウ、マルシオ・アラウージョ、FW阿部吉朗、そして名古屋を10年間支えたDF古賀正紘などが加入。J1復帰1年目の目標を「勝ち点45を取る」と設定した。シーズンでは開幕戦の磐田戦に4-0で圧勝する(しかし、最終節の同カードは0-4と完敗)と、その後も苦手にしていたアウェーでも勝ち点を得るようになり、前半戦の台風の目となる。3月末に小野寺重之から河西晋二郎に社長が交代。小野寺はサポーターから補強に関する疑問の声や、チームのJ2降格により厳しい批判があったが、1年でのJ1復帰という約束を果たした。中盤戦は、2年前は大敗したアウェーの浦和戦を1-1で乗り切ると、苦戦が予想された8月を3勝2分と無敗で過ごす。特に浦和・横浜FMら強豪クラブと共にJ1最少失点の座を争い、8月までの23試合中12試合が無失点という、2006年とは打って変わって強固な守備陣を武器にして勝ち点を挙げた。9月23日の川崎戦で当初の目標の勝ち点45を残り8試合を残して達成したがその後は故障者が相次いだ事もあり、4連敗を含む1勝1分6敗と翌シーズンに不安を残した。
GK水谷雄一、MF谷澤達也が移籍したものの、GK菅野孝憲、MFアレックス、FWポポなどを獲得[4]。DFの補強は鎌田次郎[5]のみと攻撃陣の補強が目立った。
リーグ戦では序盤は上位につけるも、中盤に低迷し、一時は残留争いに巻き込まれる乱調ぶりで、目標の勝ち点55に及ばず、前年の成績も下回った。加えて、来季の強化方針を巡って、フロントと石崎の間で意見の相違が露呈したため、石崎はこのシーズンをもって退任(事実上の解任)。だが、天皇杯では、前身の日立製作所本社サッカー部時代以来、33年ぶりに決勝へ進出。決勝は延長でG大阪に敗れたが、準優勝の成績を収めた。
石崎の後任監督に高橋真一郎が就任。更に元日本代表DFの井原正巳や、元清水のシジマール・アントニオ・マルチンスをコーチに招聘。選手では目立った退団者は千葉に移籍したアレックスのみで、新入団選手は柏レイソルユースから史上最多の5人の選手が入団。退団したアレックスに代わる外国人選手として、2007年に在籍していたアルセウが復帰、更にナイジェリアからアデバヨを獲得した。
ところがシーズンが始まると、アルセウがケガのため登録抹消。フランサ、李忠成などの主力選手が相次いで負傷離脱するなどチームは低迷。その状態を打破するため、大宮から小林慶行、クルゼイロECからアンセウモ・ハモン、G大阪からパク・ドンヒョクをレンタル移籍で獲得した。 石崎前監督の築いた徹底したプレッシングサッカーを基調としつつ、より支配率を高めるアクションサッカーへの転換を目指したものの、怪我人の続出もあって思うようにサッカーの成熟が進まず、リーグ最多失点での17位と低迷。7月15日をもって成績不振により、高橋監督を解任。新監督には東京V、名古屋で監督経験のあるネルシーニョを招聘。J1残留に向けたチームの建て直しに期待がかけられたが第33節の大宮戦に引き分けて、2006年以来2度目のJ2降格となった。なお、この年は千葉も降格が決定し、千葉勢がJリーグ発足18年にして初めて1部から姿を消すことになった。かつ同一都道府県のチームが2チーム降格するのはJリーグ史上初である。
戦力外になった選手以外ではレンタル元の清水に戻った杉山浩太のみの移籍に留め、フランサ、大津祐樹など、多くの主力選手は残留した。J2屈指の戦力を揃え、1年でのJ1復帰を目指した。シーズン途中にフランサが退団、菅沼実、古賀正紘が期限付きで磐田に移籍。それでも、司令塔レアンドロ・ドミンゲスを中心としたリーグ最多得点タイの攻撃と、GK菅野孝憲を中心としたリーグ最少失点の鉄壁の守備が噛み合い、開幕から19試合無敗と年間最少敗戦数「2」のJリーグ新記録を樹立した。 第33節の岐阜戦に3位以内が確定してJ1復帰が決定、第36節の横浜FC戦に勝利してJ2優勝も決めた。これにより、Jリーグのクラブでは史上初となる「J1、J2両ディビジョンで年間で最多の勝ち点を獲得」(ただしJ1の最多勝ち点を取った2000年は当時の2シーズン制でのリーグ規定により優勝とは扱われず)という快挙を達成した。
2009年以来2度目のJ1復帰。右SBのレギュラーだった小林祐三が横浜FMへ完全移籍。期限付き移籍中だった古賀正紘、菅沼実が磐田に完全移籍となった。 補強として大宮から安英学、京都から増嶋竜也、福岡から中島崇典、清水から兵働昭弘を獲得、新外国人としてジョルジ・ワグネルを獲得。ネルシーニョ監督はシーズン6位以内を目標に掲げてシーズンに入った[6]。シーズンではU-22日本代表の酒井宏樹、澤昌克、ジョルジ・ワグネルらの活躍もあり首位戦線で健闘、名古屋、G大阪との熾烈な優勝争いの中、11月に首位に立つとリーグ最終節で浦和に3-1で勝ち、J1初優勝を、Jリーグ初となるJ1昇格1年目での優勝で飾った[7][8][9]。試合後、地元・日立柏サッカー場で優勝報告会があり、地元に残って応援し続けたサポーターが公式戦並みに集まって、凱旋した選手と祝勝に浸っていた[10]。また、翌日午前10時から行われた柏市主催による柏駅西口ロータリーでの優勝報告会は突然の告知にも関わらず、8000人ものサポーターが駅前を埋め尽くし、監督・選手たちのあいさつに大いに沸いた[11]。
藏川洋平が退団、パク・ドンヒョクが大連実徳に、仙石廉(岡山)、池元友樹(北九州)がそれぞれレンタル移籍していたにチームに完全移籍、兵働昭弘が千葉に、相馬大士がJFL・FC琉球に、岡山にレンタル移籍していた山崎正登がFC岐阜に、JFL・秋田にレンタル移籍していた比嘉厚平が山形に、FC岐阜にレンタル移籍していたエフライン・リンタロウがJFL・秋田にレンタル移籍、武富孝介の熊本への期限付き移籍期間も延長した。
補強は東京Vから福井諒司、横浜FMから昨シーズン横浜FCに期限付き移籍していた藤田優人、栃木SCからリカルド・ロボ、磐田から那須大亮、東京Vから昨シーズン北九州にレンタル移籍していた福井諒司を完全移籍で獲得、FC岐阜にレンタル移籍していた川浪吾郎、栃木SCにレンタル移籍していた渡部博文が復帰、ユースから山中亮輔が昇格した。
詳細は「柏レイソルの年度別成績一覧」を参照
| 開催年 | 月日 | 大会名 | 対戦相手 | 開催スタジアム | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2011年 | 12月8日 | FCWC2011 プレーオフ | 豊田スタジアム | ○ 2-0 | |
| 12月11日 | FCWC2011 準々決勝 | △ 1-1 (PK4-3) | |||
| 12月14日 | FCWC2011 準決勝 | ● 1-3 | |||
| 12月18日 | FCWC2011 3位決定戦 | 横浜国際総合競技場 | △ 0-0 (PK3-5) |
なお、浦和戦など、多数の入場が見込まれる場合は、国立霞ヶ丘陸上競技場を使用する場合もある。過去には柏の葉公園総合競技場もホームスタジアムとして併用していた。
以下はその一例。
柏サポーターは独特なギャグとネタの効いたゲートフラッグを出す事で知られている。2006年以降はホーム・アウェー問わず試合に勝利した後に「レッツゴー柏」(「グリーングリーン」が原曲の応援歌)を選手・サポーターが全員で歌って踊る(柏サポーターからは「勝利のダンス」と呼ばれる)が、この時、そのゲートフラッグを何人かの選手が掲げて踊っている。この勝利のダンスやマイクパフォーマンスなど、試合後のお楽しみイベントを総称して「岡山劇場」、または「日立台劇場」と呼ぶ。また試合前には、サポーターの一人(工務店経営)が中心となって派手なパフォーマンスで選手を迎えるなど、ユニークな応援を演出している。
以下の通り。なお、これらはほんの一例であり、他にもさまざまなバージョンがある。
このようなサポーターによるパフォーマンス等の風景は、試合会場ではもちろん、You tubeやニコニコ動画などのインターネットサイトに一部載せられている事があるため、Jリーグ全体で話題になる事が多く、特にスカパーのサッカー中継の柏の主催試合の際に、実況がこのパフォーマンスのことを語ることもしばしばある。また、パフォーマンスのネタの大半が、話題性の強いものであるため、サッカー以外の分野からも影響を受けていることもある。
他チームのサポーターは、選手の応援歌などは太鼓と手拍子で歌っているが、柏サポーターは、トランペットなどを使う珍しいサポーターである。また最近では、チームや選手の応援歌の音源などを試合当日に即席で流して歌うことが多い。また前途のような派手なパフォーマンスをする時も、(特に試合前に)それに応じた音楽や効果音などを流すことがある。これらは、アウェーでも行っている。またホームの試合では、大型スクリーンを使った大胆なパフォーマンスも行い、相手サポーターからブーイングが起こることもある(しかし、逆に相手サポーターが呼応する事もある[22])。最近では対戦チームや、古巣の選手に対し讃えるような応援をすることもある。
柏市は茨城県と接しており、東京都・埼玉県とも近く、国道や鉄道などの交通の要衝でもある。そのためサポーターの分布はホームタウンエリア以外や千葉県内だけではなく、茨城県南部・東京都葛飾区や足立区・埼玉県の三郷市周辺にも比較的多いと言われている。
| ||||||||||||||||||||||||
|
| ||||||||||||||||||||||||
|
| ||||||||||||||||||||||||
| 掲出 箇所 |
スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
| 胸 | 日立製作所 | HITACHI (ロゴの下は日立グループのコーポレート・ステートメントInspire The Nextが入る) |
1992年 - | |
| 背中 | アメリカンファミリー生命保険会社 | Aflac | 2005年 - | |
| 袖 | 日立製作所 情報・通信グループ | uVALUE | 2007年 - | |
| パンツ | 学校法人廣池学園 | 麗澤大学 | 2009年 - |
※国際試合用のユニフォームは胸スポンサーのHITACHIのみで背中に選手名が入る。このユニフォームはFIFAクラブワールドカップ2011から使用されている。
※2011年から各アカデミーチームのみ、背中にマブチモーター(表記:MABUCHI MOTOR)のロゴが入るようになった。
| 年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
| 1992 | HITACHI | - | - | – | adidas |
| 1993 | - | - | – | ||
| 1994 | - | - | – | ||
| 1995 | - | maxell | – | Mizuno/adidas | |
| 1996 | - | – | |||
| 1997 | - | – | UMBRO | ||
| 1998 | - | – | |||
| 1999 | アメリカンファミリー 生命保険会社 |
– | |||
| 2000 | – | ||||
| 2001 | – | ||||
| 2002 | - | Aflac | maxell | ||
| 2003 | - | ||||
| 2004 | - | ||||
| 2005 | - | ||||
| 2006 | Wooo | ||||
| 2007 | uVALUE | ||||
| 2008 | |||||
| 2009 | 麗澤大学 | ||||
| 2010 | |||||
| 2011 | YONEX |
下部組織からは多くの選手をトップチームに輩出しているが、その反面定着した選手は多いと言えない。また、プリンスリーグの参入戦で2007年から4年連続でPK戦で敗退していたが、2011年の関東プリンスリーグへの参入を決めた。なお、過去には東京都青梅市のサッカークラブ(現:アーゼット'86東京青梅)と業務提携し「柏レイソル青梅」が活動していたが、2008年10月に提携を解消している[23]。
詳細は「柏レイソルの選手一覧#下部組織出身の選手」を参照
| |||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||
| ||||||||||||||
Tweet
mixiチェック